概要

劇団新人類人猿さんの境界線上のアリア2022を観てきたので感想を書きたいと思います
観劇日 2022/07/24(日) 14:00
場所 金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房

あらすじとかそういうのはあまりないので、なんとなく場面移り変わりとその時私が思ったことを書き連ねます。一人称が「私」なのは雰囲気作りです

冒頭、明かりが消えると大きな旗をもった役者が上手、下手から現れ交差する。暗い照明のため色は判別しにくいがおそらく国旗のイメージで、当然ロシア・ウクライナの戦争を連想させる。タイトルの”境界線”からも国と国の境界線を関連付けているに違いない

その後、奥からまた大きな旗をもった役者があらわれ、応援団のように(またはよさこいのように)ゆっくりと大きく旗をはためかせる。やはり照明が暗く旗の色は判別できない。その後ろでまた別の役者が一人で散文的な長台詞を発する。腐敗と同じ速度で世界が進む、遠くで大勢の体が壊されている……などなど。後半でこのセリフがほかの役者陣と一緒に群唱される。あれだけ長い間旗を振るのは大変だろうと思った

しかし、旗を振るという行為は何を意味しているのだろうか。そもそも意味を考えること自体に意味があるのかという思考のぬかるみに足を取られかけるが、旗を振ると言うのは正直にとらまえれば何かを応援したりする場面で使われる。しかし、別の見方をすれば白旗のように降参を意味することもある。先にも述べたように、舞台上の旗の色は鮮明ではなかった。冒頭の戦争を想起させる旗の交錯と、その後の旗の振り回しは、何かの応援と敗北を認めるという、全く異なった事柄を同時にイメージさせ、それもまた我々の理解の境界線上にあるのだという事を克明に語りかけてくる

一人台詞の後、場面は変わり、舞台中央の壁の前に女の役者、そして、上手、下手に1名ずつ別の男の役者が現れ、背後から光線上に設置されたサーキュレーターによって瞬間的に明滅する照明を浴びながら、赤い紐を苦しそうに手前に引っ張てくるという状況になる。役者は分厚い黒い外套をまとっている。赤い紐は伸縮性があるようで、なんとか引っ張ってきてもどこがでその張力に負けて、倒れ引きずられてしまう。それでも何度も起き上がり紐を引っ張り続ける。また、その場面の背景には戦闘機の爆撃音(もしくは単なる飛行機の飛んでいる音)がずっと鳴り響いている。この舞台に通底するテーマは戦争なのだろうか。いや、そうとも言えない。男が引っ張り、倒れ、引き戻されるその赤い紐が何かを考えるとそこにヒントが見つかる。あの赤い紐はおそらく臍帯(へその緒)である。中心の女、その左右から紐を引き前に進むのは、人間だ。左右2つの照明は子宮であり、そこから人間は臍帯と一緒に世界へ出るも、倒れ連れ戻され、そしてまた前に進む。生と死の繰り返しが戦争の音を背景に描かれているのだ。繰り返されるその行為とともに中空の爆撃音は主題の元となったG線上のアリアに移行していく。我々はその境界線上をゆっくりと独りで進んでいくのだ

また場面は変わり、背景の音に合わせて足を踏み鳴らしながら役者たちが歩く。一種の儀式とも思えるその様相は見ている者の精神を別の場所に誘うダンスのようでもあった。そして、冒頭の役者がまた一人語りを始める。窓を開けると空に大きなカメラがあり、都市を一瞬にフィルムに閉じ込めてしまう。我々は生まれながら見られることを承認している、という内容だった。つまりこれは、皮肉である。遠くで起きているどんなことも、我々はインスタントに見ているのだ。その場ではなく、一瞬にしてフィルムに、情報に変換されたものを見ているし、見られている。同じ世界で起こっているはずの出来事に対するあまりにも薄い現実感、それに対する皮肉であり、警鐘であった

そうしているうちに、男の背後に白熱球らしき照明が吊るされて(物理的に)落ちてくる。そして、地面すれすれで止まった。男はそれに少し力を加えると振り子のように白熱球が揺れる。影が伸び、縮み、下から照らされた男の顔は暗闇に同化する。そのコントラストは光と闇である。そしてその間にも境界線が存在しており、白熱球の揺れに従ってその境界線は男の体の上で踊っている。私はこの光景を見て、光にフォーカスされた画を見て、なるほど、3日目である。と思った。神は世界を作って3日目に「光あれ」と言ったらしい。この男は神で、いま光が生まれたそういう世界なのだ。その考えを補強するように後ろから繭に包まれた女が運び込まれ、ゆっくりとその繭を破って世界に現れた。戦争のモチーフかと思いきや、我々は生命の誕生、そして世界の創造という遥か高い次元までその空間を移動させられていたのである

そしてまた、場面は変わる。役者たちが激しい音楽に合わせ肘を突き出し何かから身を守るような体制を繰り返しながら、ばらばらな群舞(!)を繰り広げる。そうしているうちに、女がその中に飛び込んできて、一つの陣形となり糸の切れた人形のように崩れ落ちた。床に這いつくばりながら冒頭の独唱をそれぞれがバラバラに発しつつ、起き上がろうとしてまた崩れる。その一節に「腐敗しながら進む」というものがあった(私の記憶違いでなければ)

それを聞いて、私の好きな歌詞の一部を思い出した(浜田省吾ではない)

世界は今日も簡単そうに回る。そのスピードで涙も乾くけど

thepllows funnybunny

我々は未来に希望を見出しがちである。明日は輝いているように思える。しかし、そうではなく、時間が進むということは、世界が進むということは、それ相応の変化や取捨選択を行っていることと同義である。冒頭の戦争を想起させるシーンが、状況は今も地続きであり、それはきっと明日も明後日も続いており、それらと同じ世界で時間は進んでいるという事を忘れてはならない

私の頭の中でthepillowsが鳴り終えたのと同じころ、ばらばらの群唱(!)が終わりラストシーンを迎える。役者たちはそれまで着ていた分厚い外套を脱ぎ去った。自分と世界を分け隔てるもの、それが境界線であり、メタファーとしての外套であった。世界との境界線が一つ取り払われたのである。そこに一つの大きなカタルシスがあったことは間違いなかった

以上です。